マスタービルダー
志村雅樹

元プロドライバー

特別なカスタムショップ製

志村雅樹(Masaki Simura, 1981年9月21日 〜)は、日本の元レーシング・ドライバー(2001〜2005)。2001年7月29日、スポーツランドSUGOにて開催されたESSO FORMULA TOYOTA ROUND5にてFastest Lap 1’37.954 ・ 136.139km/h (Team:プライズエンジニアリング・FT)を記録する。フォーミュラトヨタは国内で初めてのワンメイクフォーミュラレースとしてスタートを切ったレースシリーズである。レーシングカートやFJ1600とF3の中間に位置付けらるもので、現在のF4に相当する。

走りの本質
それがわかる

代え難い
経験を得た

フォーミュラ
トヨタ

モータースポーツにのめり込む

このシリーズでは、シャシーやエンジン、タイヤをすべて共通とし、パーツもほとんど指定されたものしか使用できない。それ故、マシンによる性能差が生じにくく、ドライバーの実力で差がつくことになる。その一方で、マシンの調整幅は広く、ドライバーはメカニックとのコミュニケーションの中でセッティングを学ぶことができる。速く走るにはドライバーのドライビングテクニックも重要な要素となるが、マシンを最高の状態にすることが必要となるため、その過程でも多くのことを学べるように配慮されていた。四輪車の多くを学んだ。

俺より早い
マフラー屋はいないと思う

カートレース

初めて乗ったエンジンはバギー

ただ面白かった

雅樹は、米軍横田基地のある東京都福生市にてに生まれた。鉄鋼職人で工場経営者でもある先代社長の志村の長男として生まれた。
幼少期から父親の影響を色濃く受け、5歳で4四輪バギーを始める。その後モータースポーツにのめり込み、10歳でカートに転向。20歳でフォーミュラトヨタでレーシングドライバーデビューを果たす。

アイルトン・セナに
恋焦がれて

さめがたい情熱

挫折そして希望

ワンオフマルフラーとの出会い

1981年2月、セナはフォーミュラカーレースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリス(イングランド)に渡った[16]。1981年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。イギリスで成功を収めたにもかかわらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した[8][17]。

しかしレースへの情熱は冷めがたく、

井の中の蛙、大海を知らず、
されど、天の高さを知る。

ワンオフマフラー

大切なこと

情熱を傾ける価値があると思った

1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権にウエストサリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降はエディ・ジョーダン・レーシング所属のマーティン・ブランドルがセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した[21]。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。

また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。

なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた[22]。

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